marico title

 

足下に濃い影を落とす強い陽射しの、朝とも昼とも呼べない時間。
起き抜けの頭を抱えて、部屋を出る。
いつものようにリビングに入ろうとした所で、ふと気がついた。
普段はうるさいくらいに賑やかなのに、今日は家の中がやけに静かだ。
誰もいないのか?
辺りを見回すと、開け放した窓から薄いカーテンがはためいている。
そして、その向こうにはフランソワーズが一人、テラスに立っていた。
傍らに汗をかいたグラスを置いて、ぼんやりと遠くを眺めているように見えた。
なんだか少し何かを考え込んでいるような表情で。
青い瞳が、ずっと遠くの空を見つめているようだった。
からん、と、グラスの中の氷が音を立てる。
薄いグリーンの色をした、その中身が、とても涼しげだ。
暗い部屋から見える、くっきりと陰影のついたその様子は、明るく色彩にあふれた絵を遠くから眺めているようだと思った。手の届かない、遠い世界のような。
「…おはよう」
後ろから、さも今来たところだといった風に声を掛けると、彼女が微笑みとともに振り返る。
「あら、ジェット、今お目覚め?昨日も帰りが遅かったものね」
「誰もいないのか?」
「もう、みんなとっくに出かけてるわよ。イワンは今、眠りの時間だから部屋で寝てるけれど……。ジョーは博士と、博士のご用で出かけちゃったし、ピュンマは本屋さんに行くって言ってたわ。それに珍しくジェロニモもついていっちゃったの。大人とグレートはもうお店に行ったし、ハインリヒは散歩ですって」
「暑いのにみんな、よく行くなあ。ハインリヒの散歩って何だよ。わざわざこんな暑い時に行かなくたっていいだろうに……。そういえば、フランソワーズも暑くないのか?そんな陽の当たるところで」
「平気よ。なんだか気持ちがいいくらい。今日はわりと風が吹いてるの。ジェットもいらっしゃいよ」
フランソワーズが言うと同時に、涼しい風が彼女の髪を流す。
袖のないシャツと、七分丈のデニムパンツという涼しげな姿の彼女。
うるさいくらいの蝉の声。
誰が吊したのか、ガラスの風鈴が小さくいい音を立てた。
それに答えるように、ひときわ蝉の声が大きくなる。
「……そうだな、結構気持ちいいかもな」
ジェットは、その声に誘われるようにベランダに出て、フランソワーズの隣に立った。
やっぱり日射しが眩しい。思わず手で太陽の光を遮った。
その向こうには真っ青な空。こんなに濃い色の空を見られるのは、今の時期だけかもしれない。
ぽっかりとした白い雲が浮かんでいる。
遠くの方で、はしゃぐような子供の声がした。
どうやら海岸では子供たちが遊んでいるらしい。
そういえば夏の休みの最中だったかと、今更のように思い至る。
どうりで大人やグレートが、毎日忙しそうにしているはずだ。
「ね、結構涼しいでしょ?それにね」
フランソワーズが傍らのグラスを持ち上げる。
また、からんと氷が音を立てた。
「これもあるし」
「なんだ、それ?酒か?」
「もう!ジェットと一緒にしないで。ミントティよ。すっきり涼しくなるの」
薄いグリーンの茶の中にたくさんの透明な氷と、小さな葉が乗っていた。
ふわりと特有の香りがする。
「ジェットも飲む?目覚ましの効果もあるみたいよ」
フランソワーズが、グラスをジェットの方へと差し出した。
「まずは飲んでみて。好みだったらジェットの分も入れてあげる」
ジェットがそのままグラスを受け取った。
ひんやりとしたフランソワーズの白い指先と、少し汗をかいたグラスの感触が気持ちよかった。
「ふうん。ミントティねえ」
この手のものには、あまり馴染みがない。
おそるおそるグラスに口を付けた。
ほんのり甘いその味。確かにゆっくりと清涼感が広がっていくようだった。
「あ、甘かった?ちょっぴり蜂蜜を入れてるの」
「いや、これ、結構うまいな」
もう一口、含む。
「そうでしょ?でも、ジョーは苦手みたい」
「へえ。あいつはお子様だからなぁ」
「ジェットってば。お兄さんぶっちゃって」
フランソワーズがまた、遠い空を見ていた。
「……どうかしたのか?」
「え?」
彼女の視線が、ジェットに戻った。
「どうして?」
「別に。なんとなく」
フランソワーズは、黙ったまま少し考えているようだった。
「ジョーのことだろ」
「えっ」
ぱっと、頬が桜色に染まった。
ジェットがにやりと笑う。
「お前らって、ホントにわかりやすいな」
「なあに、それ」
「ほら、言ってみろよ。どうせここにはオレしかいないんだぜ?」
フランソワーズは少し上目使いに、ジェットを見る。


───彼が急に、自分の子供の頃の話を聞きたがるようになったのは、いつからだっただろう。
たしか暖かくなって、花が咲き始めた頃。
外出から帰ってきたジョーが、急に聞いたのだった。
『16歳の君は、どんな女の子だった?』
「どうしたの?ジョー。いきなり」
……内心どきりとしながらも、ついそう答えた。
今まで、この仲間の誰ともあまり話したことのなかった、昔のこと。
両親の話。
今があればそれでいいと、思いこもうとしていたあの頃。
ジョーは優しい瞳を、少し逸らしながら早口に呟く。
「君の小さな時の話って、あんまり聞いたことがなかったなと思って」
「…そう、ね」
またどきりとする。
思い出さなかった訳じゃない。
ジョーに話したくない訳じゃない。
ただ………。
私はジョーに甘えてもいいのかしら。
こんな風に、私だけが………。


「あのね…」
彼女が口を開いた。
「ジョーが、私の子供の頃の話をききたがるの」
しっかりとミントティを自分のものにしてしまったジェットが、にやりと笑った。
「でね……その話をすると、決まって、なんだかとっても寂しそうな瞳をするの……。私……ジョーに甘えすぎていたかしら。ジョーが聞いてくれて、うれしくて……思わず話しちゃっていたわ。兄に送ってもらったアルバムも……。けれど、知らないうちに傷つけてしまっていたのかしら」
ぶっとジェットが大きく吹いた。
それと同時に、大きな笑い声を上げる。
「え?なに?どうして笑うの?ねえ。もう、ジェット!」
「な、なんでもねえよ。お前らって、ホントに……」
「もう!笑うなんてひどいわ!……ジェットだから言ったのに」
ふいっと顔を逸らす彼女の頬が、さらに赤く染まっていた。
「わりぃわりぃ、そんなつもりじゃなかったんだ。なんでフランソワーズは、それを直接ジョーに聞いてみないんだよ」
「そんなのっ……きけるわけないじゃない」
「そういうもんか?フランソワーズは、ジョーに話してどうだったんだよ?」
「どうって……聞いてくれて嬉しかったわ。でも…なんだか……」
ジェットがフランソワーズを見る。
「ジョーに悪い気がしたんだろ」
少し躊躇った後、小さく頷く。
「それは、フランソワーズが幸せな記憶を持っているからか?」
同じようにまた、小さく頷く。
「それが私の傲慢だって……分かってるわ。決して哀れみとか、そういう気持ちじゃないの」
「……ああ」
「でも……私が不用意に話してしまったことで、哀しいことを思い出させちゃっているのかしら…って……」
視線を逸らし、遠くを見つめたまま、呟くように話すフランソワーズの横顔を見る。
亜麻色の髪が、風に緩く流されている。
「あいつも、馬鹿だな」
「え?」
「そんな風に、心配させるなんてな」
「……そんな、私が勝手に思ってるだけよ」
ジェットがテラスから身を乗り出すようにして、空を見上げた。
「フランソワーズが心配するようなことは、なにもねえよ。それだけはオレが保証できる」
黙ったまま、同じようにして空を見つめるフランソワーズがいた。
「あいつがききたいっていうんなら、本当にききたいんだ。小細工できるようなヤツじゃねえし……そんなことは、フランソワーズの方が分かってるか」
「…そうね」
「それに……」
ジェットは言葉を切り、手の中のグラスを回す。
「ガキの頃の想い出が少ない分、フランソワーズの話を聞きたいんだろうぜ。幸せな記憶を、分けてもらえるような気がしてよ」
ジェットは自分の言葉に苦笑した。
本当にこれはあいつの話か?
「そうすることで、なんだか足りないものを埋められるような、そんな気がしたりしてな」
フランソワーズが小さく微笑んだ。
「もちろん、フランソワーズだっていい想い出ばかりを持ってるわけじゃねえだろ。そんなことはわかってる。オレたちはみんな……そして、多分、あいつが一番」
彼女がかすかに頷いた。
「それでも、フランソワーズの大切にしている想い出を聞きたかったんだろうさ。お前のためにもな」
「……私の…ため?」
フランソワーズは少し考えるように遠くを見つめ、ゆっくりと目を閉じた。
「あいつの言い分はわからねえけどな。後は直接自分で聞きな。こういうのは、オレのガラじゃねえだろ」
「そんなことないわ。でも……ありがとう、ジェット」
「これの礼かな」
グラスの中身を口にする。
時折吹く、この季節にしては涼やかな風に風鈴が澄んだ音をたてる。
それを聞きながら、ぼんやりと青い空の中を流れていく雲を見つめていた。
隣でも、彼女が同じように空を見ている。
何を考えているのか容易に想像がつくような、柔らかな微笑みを浮かべて。
───お前ら、本当にお似合いだな。
いつかのジョーの姿を思い出して、ジェットは一人、笑った。
「また、一人で笑ってる」
「なんでもねえよ」
フランソワーズのからかいを含んだ声に、同じように軽く答える。
「でも……どうして私が考えてること、分かったの?ジェット」
「……お前らの考えそうなことなんて、オレさまはお見通しなんだよ」
彼女が小さく吹き出した。
「ふふ、なんだか今日のジェットって、お兄ちゃんみたいね」
「なんだか、あんまり嬉しくない言われ方だな。褒め言葉だってことにしといてやるぜ」
ジェットがニヤリと笑う。
「もちろん、最大の褒め言葉よ」
「ま、ヤツが、それがフランソワーズの想い出なのか、自分の記憶なのかわからなくなるくらい、話してやれよ。フランソワーズの大事な想い出ってやつをよ」
「それで、いいのかしら……」
「いいんだよ、そのくらいが」
フランソワーズが微笑んだ。
「じゃあ、ジェット。あなたにもね。もちろん聞いてくれるんでしょう?」
「ばっ!オレに話したって意味ねえだろ!」
「暑くなってきたわね。なんだか喉が渇いちゃった」
ジェットの手の中のグラスを、ついと取り上げると、一口、口を付ける。
優しい風がふわりと彼女の髪を揺らした。
ふいに彼女が顔を上げた。つい、ジェットもその視線の先を追う。
小さく音がして、遠くから見慣れた車がこちらに向かってくるところだった。
「博士とジョーが帰ってきたわ。もうそろそろ、ハインリヒも帰ってくる頃ね……せっかくだからみんなにもミントティを入れてあげようかな。ジェットももう少し飲む?」
「ああ。ジョーの顔でも見て楽しむことにするか。なんであいつ、これが嫌いなんだろうなぁ」
「さあ。どうしてなのかしら。私、ミントを摘んでくるわね」
ジェットの手の中にグラスを戻す。
そして、軽やかに歩いていくフランソワーズの背中を見送った。
───でも……そうだな、たまにはフランソワーズの幸せな想い出でも聞いて、オレもガキの頃を思い出すとするか。
グラスの中身を一気にあおった。
ミントのさわやかな香りが、体の中を抜けていく。
今日も暑い。
手の中のグラスの、すっかり小さくなった氷が、夏の陽射しに輝いていた。


The End

 


お読みいただいて、お気づきになられた方もいらっしゃるかも知れませんが、『卯月』とリ ンクしております〜。
 これ、誰?なくらい別人になっちゃってるような気がしますが、見逃してください〜!


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