「ジョー、ちょっとつきあってくれない?」
フランソワーズがそう誘ったのは、朝と夜がずいぶんと涼しくなってきた頃だった。
「どこへ?」
彼女は悪戯っぽく笑う。
「夜のお散歩」
ジョーはもちろん頷いて、夕食の後、二人で連れ立ってガレージに向かった。
いつものように車の運転席のドアに手を掛けたジョーに、フランソワーズが優しく微笑みかける。
「ちがうわ、ジョー。今日のあなたの席は、あっち」
指さしたのは助手席だった。
「今日は私が運転するわ」
そう言って彼の手の中のキーを取り上げる。
ちゃりんと音がして、キーは彼女の手の中に収まった。
「じゃあ、お願いするよ」
フランソワーズはまたにっこり笑って、車に乗り込んだ。
ジョーもそれに倣って、素直に助手席に座る。
だが、そう言って任せたものの、自分が運転していないとなんだか落ち着かない。
手持ちぶさたのまま、なんとなく外を眺めていた。
二人の乗った車は、灯りのともった街を抜けて静かな方へと向かっていった。
徐々に街灯が減っていき、鬱蒼とした木々の間を抜けて行く。
くねった道をなめらかに走らせるフランソワーズの運転に、ジョーはこっそり安堵の息をついた。

しばらく行った所で、彼女は静かに車を止めた。
ゆっくりと車から降りると、ひんやりとした夜の風が気持ちいい。
フランソワーズに促されて、ジョーは一緒に歩き出した。
色とりどりのコスモスの咲く路地を抜け、緩やかな上り坂になっている川沿いの道を行く。
明るい月明かりが、二人の足下に柔らかな、でもしっかりとした影を作っていた。
赤く色づいた柿の実や土手に揺れるススキの間を、涼やかな風が渡る。
そのススキの葉の間で、リリリ、リリリと鳴く虫の声も賑やかすぎるほどだった。
まだ日中は陽射しも強いのに、夜はすっかり秋だと思う。

どれくらい歩いただろうか?
時々空を見ながら、他愛もない話をしているうちにフランソワーズの目的地に着いたようだった。
黙ったまま、土手から河川敷へと降りていく階段を指し示した。
ジョーはそこに座りながら、辺りを見回す。
水の流れていく方向を見ると、遠くに明るい街の灯りが見えた。
その途中の橋には、長い列車が走っているようだ。
それでもここまでは音も聞こえない。
さらさらと水の流れる音と盛大な虫の声。
時折抜けていく風の音だけで、充分賑やかだ。
フランソワーズが満足そうに笑う。
土手の斜面の階段に座りながら見上げた月は、少しかけてはいるものの、満月に近い。
しばらくの間、二人してぼんやりとその月を見ていた。
「今日、ここに来たかったの」
月を見つめたまま、フランソワーズが小さく言った。
「どうして?」
「去年の仲秋の名月って言われてる月は、ジョーに見に連れて行ってもらったでしょう?だから今年は……私がお月見に誘いたかったの」
彼女がまた、微笑んだ。
ジョーはそれにつられるように笑う。
こんな月夜に二人で過ごせるだけでも嬉しいのに……と、ジョーは心の中で呟いた。
「今日はね、十三夜って言うんですって」
「十三夜?」
「そう、ジョーも知らなかった?私も新聞で見つけたの。……『足らずの月』って言うんだって。満月にはちょっと欠けているから」
「ふうん」
「……欠けてる部分をみんなの心で埋めて満月にしようって意味を込めて、お祭りするところもあるみたいよ」
ジョーは、もう一度月を見上げた。
そう言われてみれば、明るい月の左側が少しだけ欠けている。
満月には少し足りないこの形が、不安定なような、でもなんだか安心できるような不思議な形だと思った。
「……なんだか、私たちの仲間のことみたいね」
どきりとした。
思わず彼女の方へと視線を向けると、彼女はじっと空を見上げたままだった。
「足りないものを補い合って、寄り添ってる……完全になることなんて、できるはずないのに。ううん、完全でないから私たちは私たちでいられるのに。……それでも何かを求めてる」
それきり、フランソワーズは口をつぐむ。
彼女の遠く月を見つめる瞳は、寂しさが漂っているような気がした。
すぐ隣にいるのに、なんだか遠くに行ってしまいそうで、思わずその細い肩を抱き寄せる。
彼女は、そのジョーの腕にそっと体を寄り添わせた。
そうしてやっと安心できる自分に気付き、彼も苦笑した。
彼女がどこにも行くはずないのに。何を心配していたのだろう。
ふいに彼女が口を開く。
「去年はジョーに、月に住むうさぎの話と、かぐや姫の話をきいたわ」
「そうだったかな」
「そうよ。もう忘れちゃったの?大人のおいしいお団子付きだったのに」
笑いながら、ジョーをこづく姿が可愛らしかった。
「最近、綺麗になっていく月を見て、また考えてみたの」
抱いたままの彼女の肩のぬくもりを感じながら、ジョーはフランソワーズを見つめた。
「かぐや姫は……どうして月に帰ったのかしら?」
「え?」
「自分がまわりと違ったから?月に帰れば、こちらに生まれる前と同じように過ごせたのかしら」
「………」
「どうして迎えに来た月の使者と一緒に帰ってしまったのかしら……。心をこちらにも残しながら」
「……君なら、どうする?」
彼女は、驚いたように彼を見た。
「フランソワーズが、かぐや姫だったら」
「……私がかぐや姫だったら?」
しばらく考え、目を伏せる。
「そうね……どちらがいいのかなんて、私にはわからない……でも……」
そこまで言って、彼女はまた天を見上げる。
そして一つ息を吸った。
「私は月へは帰らなかったわ」
フランソワーズはぽつりと呟いた。
「それがどんなに懐かしい場所でも……。今、ここで必要とされているのなら、私はそちらを選ぶ」
空を見上げ、月明かりに照らされた彼女の横顔は美しかった。
亜麻色の髪が、きらきらと輝いて見える。
「今、ここに大切な人たちがいるんだから……」
ジョーは何も言わず、ただ見つめていた。
「……月に帰ったかぐや姫は、慈しんでくれたおじいさんとおばあさん、愛してくれた帝や……そんな人たちのことを、忘れることができたのかしら……。月で、幸せに暮らせたのかしら」
「どちらにも、大切な人がいたのかもしれないよ。懐かしい、誰かが」
「……そう…ね」
「こちらから月を見て月を懐かしみ、月からこちらを見てこちらに懐かしむ。もう、どちらも知らなかった頃には戻れないんじゃないかな」
フランソワーズはジョーを見つめ、それから小さく頷いた。
何かを考え込んでいるようで、何かを迷っているようにも見えた。
そして、ふいに口を開く。
「……もし……これが運命だというのなら」
フランソワーズは言葉を切った。
「私は流されたわけじゃない。……私が選んだの。この運命を受け入れること」
「……」
「どんなに懐かしい世界でも……もう元のままじゃない。私も、世界も。」
「うん」
「だから、私が選んだの。ここで暮らすこと。……あなたの側にいること」
月の光を浴びながら空を見つめてそう言う彼女は、毅然として美しかった。
ジョーはその姿をただ見つめていた。
遠い故郷に焦がれているように、彼には見えた。
自分はどうだろうか?
……自分の故郷……。
想い出と呼べるようなものは、大して持っていない。
それでも、ここから離れるのはなんだか寂しいような不思議な気分がした。
この体になってからもどこにだって行けたのに、今、自分はここにいる。
それが単に自分の故郷だったからなのか、それとも違う理由があったのか、自分でも分からない。
仲間たちのように故郷に居場所を求め、無意識にここに帰ってきたのだろうか。
それなのに、フランソワーズは……。
彼女の月を見上げたままの目から、ぽろりと涙が一粒、こぼれ落ちた。
次の瞬間、しっかりと彼女を抱きしめてていた。
亜麻色の髪を揺らした頭を、白い額を自分の胸に押しつける。
「たまには僕にも甘えて。フランソワーズ」
胸の中のフランソワーズの体が小さく一度震えた。
そして、かすかに頷いたようだった。
細い肩をしっかりと包み込むと、彼女の震えが伝わってくる。
しゃくり上げるようなかすかな声が、彼の耳にも小さく、でもしっかりと届いていた。

しばらくの間、そうしていた。
彼女のぬくもりを感じながら、彼女の寂しさのようなものも感じられた気がした。
心の中で、謝罪の言葉を呟く。
こんなにも想いは深いのに、それに気づくことすらできなかった自分が悔しかった。
それでも、彼女が今、ここにいてくれるという安堵の気持ちは確実に存在していた。
どこまでも自分勝手だなと思いながらも、彼女を抱きしめた腕を緩めることができない。
この手を離すことなんて、絶対にできないことも彼には分かっていた。
ようやくフランソワーズの小さな声が聞こえなくなった頃、ジョーが囁いた。
「フランソワーズ、ごめん」
「どうして謝るの?」
「……君が、ここにいてくれてよかった。どこにも帰らないでくれて」
「……ここに帰ってきたのよ」
「そうかな……。僕は君を帰さないために、無理難題をクリアしなきゃいけないところだったかも」
冗談めかして、ジョーが言った。
「ふふ……無理難題かもしれないわ」
フランソワーズは、顔を上げて濡れた瞳のまま、ジョーを見つめた。
「絶対に一人で行ってしまわないで。ずっと一緒に……」
彼女の言葉は、最後まで告げられることはなかった。
彼の唇が、彼女の唇をそっと塞ぐ。


さらさらと、水の流れる音がする。
あちこちから聞こえる高い虫の声と、時折吹く風に揺れるススキの葉音が、それを追いかける。
明るい月が、重なった二人の姿を照らし出していた。
───足りないものを埋め合うように。

The End



*この話は、カウント18000を申告してくださったROKOさんのリクエストにより書かせ ていただきました。(せっかくのリクエストなのに暗くなってしまったかも)
 ROKOさん、どうもありがとうございました。
  少しでも楽しんでいただけたら、うれしいです。


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