部屋の角に立てたランプの間接的な灯りが、ほんのりと辺りを照らしている。
手元の灯りもつけることなく、デスクに肘をついた両手を組み合わせて、そこにいた。
背後にある窓に、その影が淡く映っている。
黒い瞳はじっと一点を見つめ、そのまま動かない。
時折、肩にかかった長い黒髪が、さらりと滑り落ちるだけだ。
どれだけそうしていただろうか、ふと瞳が動く。
左手にある扉に意識を向けたようだった。
そして、そのすぐ後にかすかなノックの音。
「入れ」
短く答えると、静かに扉が開いた。
そこには若い女の姿があった。
その姿を認めて、ゼルはくちびるの端を上げた。
「ゼルさま」
女は恭しく頭を下げる。
「先程、無事、完了いたしました。すでにお部屋の方に移っておいでです」
感情のこもらない声が、それだけを告げた。
女の様子を見て、ゼルは薄く笑う。
「分かった。博士たちにはよく休むように伝えろ」
「かしこまりました」
音もなく立ち上がると、黒く長い髪がゼルのまわりをふわりと舞った。
「……私は様子を見てくる。ユリア、お前も休んでいい」
もう一度ユリアが頭を下げると、ゆっくりと扉を開け、そのまま支えている。
ゼルはその脇を通り、先に部屋を出た。
しっかりとした足取りで、迷うことなく迷路のような廊下を歩く。
その後ろには、ユリアが影のように付き従っていた。
言葉を交わすこともなく、ただまっすぐに進む二人の靴音が、
廊下に高く反響していた。

目指す部屋の手前には、二人の兵士が立っていた。
ゼルの姿を素早く見つけて、敬礼する。
「……ごくろう」
兵士たちが一瞬硬直したようにも見えたが、それを問う前にユリアが部屋の鍵を開けた。
かちゃりという小さな音が三回、やけに響いて聞こえた。
大きく、重い扉をゆっくりと押し開けると、その間をゼルが堂々と通り抜ける。
そして、部屋に一歩入ったところで立ち止まった。
「では……。失礼致します」
ユリアの静かな声とともに、扉が閉められた。
ゼルはユリアの言葉に小さく頷いた後、その場でぐるりと部屋の中を見回した。
自分の指定通りに仕上がっていた。
大きな装飾のある窓も、その向こうにある庭園も。
その窓から、淡い月明かりが差し込んでいる。
ゼルはにやりと笑った。
「───ユリアめ、よくここまで整えたものだ」
一人つぶやく。
視線を移すと、整えられたベッドには小さな体が横たえられていた。
ようやく様々な器材が取り払われ、その体をこの部屋に移すことができたが、まだ点滴だけは取り付けられていた。それが、少し痛々しい。
そう思ってから、自嘲気味にくちびるの端を上げた。
こうしたのは、自分だ。なぜそのように思う?
これは私のものだ。契約を交わした……。

だが……。
あの船上でゼル自らが傷を負わせた後、まだ一度も目を覚ましていない。
小さく息を吐くと、静かにそのベッドに近づいた。
白い夜着に包まれた彼女が眠っていた。
亜麻色の髪が、白いシーツに広がっている。
それと同じ色のまつげに縁取られた瞼は、閉じられたままだ。
青ざめた顔の中で、ほんのりと色づいたくちびるだけが生きていることを感じさせた。
左の細い腕には、点滴の管が取り付けられている。
胸まで上げられた薄い掛布を、脇に押しやった。
静かに胸が上下している。
それを見て、ようやく安心できたような気がした。
「そう簡単に殺しはしない……。私から逃げられると思ったか?」
ゼルが冷ややかに、フランソワーズを見下ろしていた。
そっと襟元に手を伸ばすと、ゼルの長い指が夜着の釦をゆっくりとはずした。
鎖骨から胸元にかけて大きく開くと、 徐々にその夜着よりも白い肌がかいま見える。
そこで、ようやくゼルは手を止めた。
右の肩から左の脇の辺りまで斜めに巻かれた包帯。
ただでさえ華奢な体が、さらに折れそうなほどに見える。
それになぜだか苛立ちを感じていた。
何かに押されるようにして、止められた包帯をそっとはずし始める。そしてその無造作にほどいた包帯を、あたりに投げ出していく。
それすらももどかしくなると、彼女の背中にそっと手を差し入れ、ふわりとベッドから体を浮かせた。
頭が少しだけ反り、ゆるくウェーブがかかった髪がゼルの腕に触れる。
その柔らかな感触に、なぜだか胸が高鳴った。
なるべく動かさないように細心の注意を払い、その体から包帯を取り除いていく。
床に包帯の端がはらりと落ちた。
ゼルが、さらに一歩彼女のそばに歩み寄る。
なめらかな曲線を描く、胸元のライン。
細い肩は、ベッドに沈むようにしてそこにある。
亜麻色の長い髪に飾られた白い半身が、月明かりに青白く輝いていた。
そしてその右側には、少しだけひきつれ、まだ赤みを残している傷があった。
そっと指で触れる。
この傷も、時とともに徐々に消えてしまうだろう。
彼女の体に残した、自分の印。
「……離しはしない。お前は私のものだ。たとえ、それをお前が認めなくても」
そこに屈むと、肩の印にそっと唇を押し当てた。
少しだけ熱を持った傷。それが自分の証だった。
絶対にあいつにはつけられない種類の証。
撃った自分と、撃たれた彼女だけの、二人だけのもの。
何者も邪魔することのできない唯一のもの。

次の瞬間、ぴくりと彼女の体が震えた。
はっとしてゼルは身を起こし、その顔をのぞき込んだ。
瞼もかすかに震えている。
「……フランソワーズ」
そっと名を呼ぶと、ゆっくりと目が開けられる。
焦点の定まらない青い瞳が、ゼルを真正面からとらえていた。
「……」
「目覚めたのか?」
まっすぐに、そう問うゼルの瞳を見つめていた。
「……ジョー……」
その呟きとともに、弱々しいがそれでも精一杯であろう微笑みを浮かべていた。
ゼルの前では見せたことのない、柔らかな微笑み。
「……そこにいてくれたの……ね」
点滴のつながった左手を、ゼルに差し伸べる。
「……お願い……。もっとそばにいて……私……私……怖いの」
聞き取れないほどのかすかな声で、彼女が言う。
「……怖いの……ゼルのこと……これからのこと……」
ゼルはそっと身を屈めて、彼女の瞳をじっとのぞき込んだ。
彼女が安心したように左手をゼルの首にかけると、そのまま半身を浮かせてしがみついた。
「ずっと……、そばにいて。……お願い……愛してるって言って」
かすかな震える声が、ゼルの耳のすぐ側でする。
小さく息を吐いた。
「……お前は残酷だな」
彼女にその言葉は聞こえただろうか。
ゼルは細い体をそっと抱きしめる。
壊してしまわないように、そっと。
「ああ……愛している……多分、私は、お前を愛しているんだろう」
───だから、こんなにも執着する。
彼女の、ゼルを抱きしめた腕に力がこもる。
「私を……離さないで。……離れたく…ない……お願い……」
「分かっている」
「ジョー……」
ゼルはその言葉と彼女の荒い息を消してしまうかのように、くちびるを塞いだ。
彼女の閉じた目から流れ落ちた一粒が、広がったままの髪に吸い込まれていった。
その後を指先で拭うと、そのままそっとベッドに横たえ、やさしいくちづけを続ける。
それまでゼルの感じたことのない、穏やかなやさしいくちづけ。
彼女は微笑んでさえいるように見えた。
───お前は、あいつにはこんな風に……。
そう考えかけて、すぐにその思考をかき消した。
今はこの甘い彼女を感じていたい。
まだ麻酔が効いているのか、右肩の痛みを感じている様子はなかった。
しかし彼女の体に熱を感じ、そっとくちびるを離す。
「少し、休め」
そのまま、青い瞳をしっかりと見つめて、ゼルが呟く。
彼女の荒い息が、ゼルのくちびるに触れた。
そして、彼女がゆっくりと首を振る。
「……眠るのが……怖いの……ジョー…ここにいて…私……」
次の瞬間、彼女が精一杯身を起こす。
かすかにふれあったくちびる。
ゼルが驚きを隠せないでいる間に、そのまま彼女は倒れ込むようにベッドに崩れ落ち、そのまま瞼も閉じてしまった。
穏やかな吐息だけがその後に残る。
ゼルは呆然と、彼女の触れていったくちびるを押さえた。
そして、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「お前は本当に、私を楽しませてくれる」
熱のせいか、ほんのりと桜色に染まった肌と赤みを増したその傷にもう一度くちづけすると、夜着を戻す。
丁寧に釦を止め直して整え、胸まで掛布を引き上げた。
多分傷による発熱だろう。
あとで博士を呼んだ方がいいかもしれない。
その安らかな寝顔を見つめる。
ベッドの上に投げ出された右手をとると、そのひんやりとした手のひらを握りしめた。
「この私が、あいつに見えるほど、お前はあいつを想うのか。自ら私の元に身を投げ出しても」
自分の長い髪が、彼女の腕を包んでいた。
「決して私を見ることはないのか……お前のその瞳は」
一つ頭を振る。
「いや……いつか……お前に言わせてやる。さっきお前が私に言わせたことと、同じことを……。私の名を、呼ばせてやる」
彼女の瞼は閉じたまま。
だが、先ほどまでよりずっと穏やかな表情をしていた。
「それまで、いかなる時もお前のそばにいて、お前を守ろう。それだけは誓う」
ベッドの脇に跪くと、その手にそっとくちびるを寄せた。
「そして、かならずお前のすべてを手に入れて見せる……覚悟しておけ」
静かに立ち上がった。

───今だけは、静かにやすむがいい。
目覚めれば、また、新しい闘いが始まる。
あいつの夢でも見ていればいい。
もう一度、月の青白い光に照らされた彼女の表情を見つめると、身を翻した。
それから後ろを振り返ることなく、足早に扉へむかう。
扉の前、ノブに手をかけて、立ち止まった。
───今だけなら…な。
今日の私はどこかおかしい。あの甘さに酔ったか…?
目を閉じて、自嘲気味に笑みを浮かべた。
「今夜あったことはすべて、私だけのひみつにしておいてやろう。フランソワーズ、お前のために」
ゆっくりと扉を開けた。
舞った髪の端までもが部屋から退出すると、眠り続ける彼女のまわりに残ったのは月の光だけだった。

しんと静まり返る部屋。
彼女の本当の闘いは、まだはじまってはいなかった。

 

The End

 


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