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1
『グレートとフランソワーズはラウンジへ!僕らはここで奴等を迎え撃つ!』
『了解!』
通信で入ってきたジョーの声に返答をして、彼らはそれぞれの役割を果たすべく、散る。
戦場となりつつある客船のデッキを駆け抜け、グレートとフランソワーズがまっすぐにラウンジに向かった。
海から次々と乗船してくる兵士を片づけながら、二人は走る。
さほどの距離があるわけでもないのに、なぜだか、ラウンジが遙かに遠く感じた。
奴等の罠にかかってしまったことは明白だった。
細心の注意を払い、辺りを確認していたはずなのに……と、悔しさに歯がみしながら、ようやくたどりついたそこでは、すでに黒づくめの男が乗客に銃を向けていた。
二人はうなずきあうと、入り口付近にぴたりと張り付いて身を隠し、中の様子をそっと見た。
しんと静まり返ったラウンジ内。
そこには、豪華な船旅を楽しんでいたであろう多くの人が、立ち尽くしていた。
フランソワーズは、その中に兄の姿を見つけて息を飲む。
兄は、怒りを瞳に浮かべて、その男たちを見据えていた。
「遅かったか……」
グレートが小さくつぶやく。
フランソワーズは、ただ頷いただけだ。
「さて、ベルリネールは押さえたか」
男は嘲笑うように、数人の部下に身柄を拘束されている紳士を見た。
両手を男の部下たちにとられたまま、ぐったり力無くうなだれている。
どうやら、意識は失われているようだった。
まわりには、氏の警護を担当していた者たちが昏倒していた。
男がにやりと笑う。
「よし……では、後はこの船の始末だな。引き上げられない位深くに沈めてやるから安心しな」
下卑た口調。ちらりと、腕の時計に視線を走らせている。
どうする?グレートとフランソワーズは、互いに目線で確認した。
まだ仲間たちは応戦しつつ、こちらに向かっているところだ。
彼女は唇を噛んだ。
ここには兄がいる。
ただ、乗り合わせただけの乗客がいる。
小さな子供たちまで。
どうあっても、その命を落とさせるようなことにはしたくない。
「……ああ、もう一つ、大切な用事が残っていたな」
男は薄笑いを浮かべたまま、ラウンジに集まっている人たちをぐるりと見渡した。
「003……いるんだろう?ここに」
フランソワーズは、小さく息を飲んだ。
「お前も連れて行かなくちゃいけない。……理由は、言わなくても分かっているだろう?へへ」
男は下品に笑うと、もう一度、着飾った乗客の怯えた姿を見回した。
「ここに来い。さっさと出てくる方が、この乗客達のためだぞ?もしかしたら、あの方が気まぐれをおこして、乗客の命は保証してくれるかもしれない」
物音一つしないラウンジ。
乗客達はお互いの姿を疑うように、ちらちらと周りに視線を走らせている。
青ざめた彼女の腕を、グレートがしっかりとつかんでいた。
「さて……じゃあ、こいつらから殺してやろうか?オレ達は全員やっちまったほうが後腐れがなくていいと思うんだがな」
手の中で銃を弄びながら、乗客たちにその銃口を向ける。
『ダメだ。フランソワーズ!お前さんを、あいつに渡すわけにはいかない』
『だけど、グレート……』
「ふうん。どうやら、罪もない者を殺して欲しいようだな。……そうだな……最初の犠牲者はお前だ」
一番端にいた男性客にむけて、間髪入れず発砲した。
悲鳴すら上がらなかった。
代わりに周りの乗客たちが、引きつったような声を上げる。
その男性客は声もなく震え、銃から伸びた光線は彼のすぐ脇の壁を溶かしていた。
「おっと、オレは優しいな。つい、手加減してやったぜ?……もう一度だけ言う。さっさと出てこい。003。それとも名で呼んだ方が出て来やすいのか?」
男は、ちらりと目だけをあたりに巡らせた。
「フランソワーズ」
「やめて!」
男の声を遮るように叫んで、彼女は唇を噛みしめた。
まわりの人間の目が、彼女に集中する。
事情を知っている兄だけが、そっと目を伏せた。
「グレート、私はみんなが来るまでの時間稼ぎだから。みんなを信じてるから」
自分の腕をつかんでいたグレートの手をほどくと、小さくそう言い置いて、身を翻した。
亜麻色の髪の先が、グレートの鼻先をかすめていく。
彼女は背筋を伸ばし、毅然として男の前に出る。決して弱みを見せたくはなかった。
まっすぐに。その男の視線を受ける。
客たちの中で小さく声を上げそうになった兄を、グレートが目線で制した。
今は彼女の言うようにしてもらう他はない。
ここで時間を稼いでおけば、仲間たちが駆けつけてくれる。
もう、すぐそこまで来ているのかもしれなかった。
「確かにお前だ。003。へえ、いい女だな。ゼルさまが気に入るのも納得できる。お前を見つけ次第、生きたまま、ゼルさまのもとにお届けする手筈になっているからな」
男の目の前で立ち止まった彼女に、そんな言葉を浴びせた。
彼女は強い瞳のまま、男を見つめる。
自分に、一体どこまで時間を稼げるのか不安だった。
「だが、出てくるのが少々遅すぎたな」
瞬時に彼女の鳩尾に、男の拳が力一杯叩き込まれた。
「うっ!!」
軽いからだが跳ね上がった。
息が詰まる。呼吸ができない。咳込むことすらできなかった。
目の前が暗くなる。
彼女は、その場に崩れ落ちた。
「きゃあああっ!」
周囲から悲鳴が上がった。
「何をするんだ!!」
「フランソワーズ!」
「うるせえな。黙ってろ」
男の部下が銃を向けると、ラウンジ内は一瞬にして静まり返った。
「へえ、なかなかやるな。オレの当て身を食らっても、まだ意識があるのか」
それでも必死に起き上がろうとする彼女を、足先で蹴飛ばした。
「……悪く思うなよ。抵抗するようだったら、手荒な行動に出ていいってゼルさまのお達しだからな。暴れられても面倒だ。気でも失っていてくれた方が、俺たちも運びやすかったんだが」
そこまで言ったとき、彼女の背後から現れた光の筋が、男の眉間に吸い込まれた。
男は何かを言う時間も与えられず、その場に倒れる。
その眉間には、焦げたような跡だけが残った。
彼女を助けるために駆け寄ろうとしたグレートすら、間に合わない。
まわりの人々は、悲鳴を上げることもできなかった。
フランソワーズが、殴られた腹部を押さえて、なんとか立ち上がる。
逆光の中、黒いシルエットが浮かんでいた。
見覚えのある、長い髪。
(……お願い…ジョー…早く、来て……)



2
はじまりはイワンの予言だった。

「はあ、豪華なもんだな、こりゃ」
ちらりとあたりに視線を走らせて、グレートはぼやいた。
潮の香りを多く含んだ風が心地よい。
が、それさえなければ、ここが陸から遠く離れた見渡す限りの海の上だとは思えなかった。
「コンサートホールにスケートリンク。チャペルまであるんだと。こうなると一つの街だな」
「まったく。海の上なら海らしい生活した方が、楽しめそうな気がするんだがなあ。わざわざこんなでっかい船に街を丸ごと作らなくても」
ジェットも、空を仰いで呟いた。
雲一つない青空が、ずっと遠くまで広がっていた。
ぎらぎらと輝く太陽の眩しさに、おもわず顔をしかめる。
「それだからこそ、潜り込めるんだろ。イワンの予言通りなら、これから丸ごと海の底だ」
ハインリヒが声をひそめた。
まわりの乗客には素知らぬ顔で、しっかりと辺りをうかがっている。
これといった異常は見つけられない。
それにしても……とハインリヒは思った。
(こうやたらと広くちゃ、チェックするのも一苦労だぜ)
今、歩いている辺りも、写真だけ見せられれば誰も船の中だとは思えないだろう。
規模こそ小さめなものの、その豪華さでは世界有数の客船だ。
乗客にもきらびやかな雰囲気が溢れている。
当然、彼らもそのように装い、また違和感なく溶け込んでいた。
「イワンは?」
ジェットが、ハインリヒに聞く。
「もう『夜』の時間だな。本当はフランソワーズも一緒に、置いて来たいところだったが……」
「分かっちゃいるが、今回のは仕方ないな。フランソワーズに動いてもらわないわけにはいかねえんだし」
「それは……そうなんだが」
グレートも煮えきらない。
何となく、どこか不穏なものを感じていた。
イワンの予言では、この船に乗り合わせている富豪のベルリネール氏が、NBGに狙われていると言う。
彼らが調べたところ、ベルリネール氏はコンピュータ関連の大手の会社の経営もしている世界有数の富豪だ。その氏を奴等に自由に操られた場合、混乱は必至である。
今まで、あの組織に狙われなかったのが不思議なほどだ。
ただ、それだけに単純に氏を誘拐すれば騒ぎになる。それは奴等の望むところではないだろう。
しかし、同じ騒ぎでも乗っていた船が沈没となればどうだろうか。
それも、センセーショナルな豪華客船の沈没。
多数の遺体はあがらない……氏は行方不明。誰もがだめだったのだとあきらめる。
だが、しばらくしてから現れるのだ。奇跡の生還といわれて。
氏は、祝福され元のポジションに迎え入れられる。
その時にはもう、氏はNBGの忠実な下僕になっていることだろう……それがイワンの予言だ。
その予言の的中率は、彼らの疑うところではない。
だからこそ、彼等は交代で氏の身辺を見張っているのだった。
また、この船の周りも。
船をゆっくりと追っているのは、ドルフィン号に待機しているギルモア博士と眠りについたイワン、ジェロニモと張々湖だった。
この規模の船の沈没となれば、多くの巻き添えが生まれてしまう。
それだけは、どうしても避けたかった。
当のベルリネール氏は多くの人に囲まれ、警備も厳重な氏には近づくことなどできない。
かといってNBGの手にかかれば、そんな警備は何の役にも立たないだろう。
それにはやはり、彼女の『目』と『耳』が必要だった。
それこそに仲間達は不安を感じているのだ。
これは罠かもしれない。
イワンはそれについては、何も言わなかったが。
「ジョーは?」
「フランソワーズとピュンマと一緒に、ラウンジにいるはずだよ」
「そうか。そろそろ合流してみるか?」
ジェットの言葉に二人は頷いた。


3
「元気そうだな」
薄暗いその部屋で、長い髪を弄びながらゼルは小さく笑った。
ゆったりとしたソファに座ったまま、その方向にじっと目を凝らしている。
晴れた青空。
さらに先を望むと、豪華な客船のラウンジが目の中に映る。
ゆっくりと視線を巡らせると、あの時目の前で連れさらわれた彼女が、そこにいた。
心が躍る。
自分がこんなにも彼女にこだわっていたのかと、驚くほどに。
思わず口元に、笑みが浮かんだ。
ゆるくウェーブのかかった亜麻色の髪も、長い睫に縁取られた青い瞳も、あの時のままに輝いている。
(いや。あいつと一緒にすごして一層と……)
ジョーを振り返って微笑む彼女を、目を細めてじっと見つめた。
「ゼルさま」
ふいに、女の声がした。
「お時間でございます」
ゼルは小さく頷く。
「今の内に、せいぜいあいつを喜ばせておけ。これからお前は私の元に来るのだから。……そして009、私の目の前からフランソワーズを奪った罪は重いぞ」
もう一度、二人の姿を視線で追うと、一度強く目を閉じる。
すぐに開いたその瞳の奥に、不穏な光を浮かべて立ち上がった。
「用意は?」
ゼルが、背後に控える数人の部下に短く問う。
「整ってございます」
女の声で返答があった。
ゼルは笑った。
やはりユリアは有能だ。自分の意図をすべて察している。
「そうか。……では、行け」


4
ラウンジに入ると、すぐに仲間の居所は知れた。
これだけ着飾った人々がいる中でも、彼女の容貌は際だっていた。
3人は顔を見合わせると、小さく笑う。
淡い色合いのワンピースに身を包んだ彼女に、ちらちらと乗客が視線を走らせている。
どこかそわそわとした乗客たちが、彼女と、彼女の周りを意識しているのが分かる。
だが、それに反して、彼女の表情は違っていた。
いつもとは違う、厳しい顔をして、じっと遠くを見ている。
「だめ」
小さく声を上げた。
「どうした?」
彼らの姿を見つけて駆け寄ってきた3人が、その様子に声をかけた。
フランソワーズが、その能力を駆使して探っている。何かを察知したようだった。
その青い瞳が、彼方を瞬きもせずに見つめている。
「やっと見つけたわ。爆弾がしかけられてる……船倉よ。……1つ……2つ…………全部で4つ、すべてばらばらの場所にあるわ。時限式みたい。ええ、今の所は作動してないわ」
じっと目を凝らした彼女が、小さな声でそう言った。
彼は、仲間を見回す。
「とにかく、その爆弾を排除しなくちゃ……。手分けして探そう」
ジョーの言葉に、その場にいた全員が頷いた。
「おい!ちょっと」
背後から不意に声がかかった。若い男の声だ。
彼らは和やかに談笑していたように見えるよう、ゆっくりと振り返る。
変に怪しまれるのは面倒だった。
だが、全員の背中には、緊張が走っていた。
次の瞬間、フランソワーズの瞳に驚きの色が浮かんだ。
「お兄ちゃ…ん?どうしてここに!?」
「フランソワーズこそ!……何か、あったのか?」
ためらいがちに、小声で聞く。
それは紛れもなく彼女の兄、ジャンの姿だった。
「……ううん、何もないわ」
緩く微笑んだ彼女が、兄の手を取った。
「 心配しないで。私たちがいるからって、いつも事件とは限らないでしょ?」
かわいらしく唇をとがらせる。うまく言えたかどうか心配だった。
何も知らない兄を、むやみに驚かせたくない。
仲間もほっと息をついた。
だが、なぜ、ここに?
再会を喜ぶより先に、こんな言葉が出てくることが少し寂しかった。
「お兄ちゃんは?ここで何を?」
「ん、まあ、仕事だな。いろいろとあるんだよ。滅多にこういうことはないけれど上の命令でな」
不審に感じながらも、それ以上は聞くことはできなかった。言葉を濁すということは、話せないことなのだろう。
それに……。なぜだか、聞くのが怖かった。
仲間たちが、さりげなく視線を交わし合っている。
「お兄ちゃん、また後でゆっくり。ごめんなさい。今はちょっと用事があるの」
「ああ、分かった。またな」
「すみません」
ジョーも頭を下げた。
ジャンから、いつも大切な妹を奪い取ってしまうようで、なんだか申し訳がなかった。
ジャンもそれ以上深くは追求せず、小さく手を振ってその場を去る。
兄の背中を見送ったフランソワーズは、その途端に体から力が抜けるような気がした。
自分たちが乗ったこの船に兄も乗っている。これは本当に偶然だろうか。
「……ジョー。……どうしてお兄ちゃんがここにいるの?NBGに狙われているこの船に!」
「誰かが、そう仕組んでいる。……そう考えるのが妥当かもな」
ハインリヒがつぶやいた。全員の視線が、ハインリヒに注がれる。
「イワンの予言の元に乗った船……。乗り合わせたフランソワーズの兄さん、分散された爆弾、バラバラにされる俺たち。……偶然というには不安が多すぎる。そう思わないか?ジョー」
彼も同じことを考えていた。
ハインリヒに頷く。それが誰かということは、誰も口にしなかった。
今やるべきことは他にある。
「とにかく、爆弾を外そう」
「あっ!」
彼女の口から悲鳴に似た、小さな叫びがあがる。
「!?」
「スイッチが今入ったわ!……多分…いいえ、30分後。一斉に爆発する!」
ジョーは全員を見回した。
今は一刻を争う。ゆっくりと考えている暇はない。
「フランソワーズはここでよく見て、僕たちを誘導してくれ。グレートはここを頼む」
彼の意図を感じて、グレートはしゃんと姿勢を正した。
「僕らはそれぞれ、爆弾を解除」
「了解」
緊張した空気が流れる。行動の目標は確認した。
後は、何も言葉を交わさなくても動くことができる。それが彼らだった。
それぞれが、それぞれの方向に散っていく。
フランソワーズは、その仲間たちを祈るような気持ちで見つめていた。

 

5
『見つけた!大した仕掛けじゃないよ。簡単に解体できる』
最初に通信で連絡してきたのは、ジョーだった。
『大丈夫?気をつけて』
フランソワーズが、その声にすぐに反応する。
『心配のしすぎだよ。これはもう大丈夫だ。他のみんなは?』
わざと明るく言う。これ以上、彼女に不安を抱かせたくはなかった。
『こっちもOKだ!ジェットは?』
ハインリヒの声。
『お!やっと見つけたぜ!こんなところじゃ、わからねえなぁ』
ジェットが感心したように言った。
『大丈夫か?時間は』
『まだあるわ。ジェット落ち着いて』
『オレよりか、ピュンマはどうなんだよ』
『僕なら、とっくに完了してるよ』
『ちぇっ。後はオレだけか……。っと、ほんとに単純なつくりだな。外してくれと言わんばかりじゃねえか。よし、完了』
ほっと誰かが息をついた。
全員が安堵した、その時だった。ラウンジの方から乾いた爆発音が響いたのは。
『何!?』
『ラウンジの方よ!……そんな…どうして!?』
『ラウンジ?!やべえ!』
ジェットが声を荒げた。
『あっ!西から急速接近中の潜水艦を発見』
『うわっ!もう来やがった』
『グレートとフランソワーズはラウンジへ!ベルリネール氏を頼む!僕らはここで奴等を迎え撃つ!』
『了解!』
それぞれの返答があって、彼らはそれぞれの役割を果たすべく、散る。
ジョーは胸騒ぎを感じた。
───いや、大丈夫だ。今は、この船を守ることを考えよう。
彼女だって、ヤツじゃなければ問題があるはずもない。
自分たちと共に闘う戦士なのだから。
ジョーは頭からその考えをふりはらうと、だんだんと姿を現した敵に向かい合った。
そう、ヤツじゃなければ大丈夫だ……。

 

6
「ちっ!キリがねえぜ!中の様子は!?」
次々と乗り込んでくる兵士達に、うんざりしながらジェットがきいた。
「まずいっ、中のネズミが暴れてるみたいだぜ!戻れ、ジョー!お前が一番速い」
ハインリヒが、巧みに撃ち返しながら叫ぶ。
彼は、周りに視線を走らせた。
デッキには敵の兵士がひしめいている。そして、それと同じほどの数の動けなくなった兵士が床に転がっていた。
デッキに出ていた乗客は、なんとか中に逃げ込むことができたようだ。
この大海原では、他に逃げられる所もない。
助けが来るのかもわからないここで、海に飛び込むのは自殺行為だった。
今、こちらにドルフィン号に乗ったジェロニモと張々湖が向かっているはずだ。
ピュンマは、海から上がってくる兵士を一掃するべく、海中に潜っている。
それだけを確認して、ここは大丈夫だと彼は判断した。
それよりもラウンジの方が心配だ。あれから、なんの連絡も入らない。
先に中に戻った、二人の無事を祈った。
「わかった!ここは頼む!」
ジョーが身を翻して、中に向かおうとした、その時。 目の前に大きなものが立ちはだかった。
あきらかに強化されている筋肉。ジェロニモよりも一回り大きく見える体躯がジョーの前にあった。
「くそっ!」
彼は、銃を構えなおした。

 

7
「……確かに、少しくらい手荒な真似をしても仕方がないとは言ったが、フランソワーズを傷つけた者を、許すと言った覚えはないな。その責任は取ってもらったぞ」
ただの物体となった、かつての部下に冷たい一瞥をくれる。
黒く長い髪が、さらりと肩に流れた。
「よく出てきたな。私が怖くはなかったのか?」
ゼルの瞳がまっすぐに彼女を捉えると、波が割れるように、ラウンジにいた人々が左右に下がっていく。
そうしてできた道の、その中程まで、ゆっくりとゼルが進む。妙な威圧感があった。
「………」
フランソワーズは黙ったまま、じっとゼルを見据えていた。
そうしていなければ、負ける。と、そう感じていた。
「まだ契約は生きている。契約違反の罪は重いぞ」
彼女に向かって、ゼルはゆっくりと銃を構えた。
グレートが素早く駆け寄ると、彼女の前に立ちはだかった。
ゼルは無言だ。唇の端に、笑みが浮かぶ。
「グレート、ダメ!」
フランソワーズは、思わずグレートと並ぶように前に出る。
その言葉と同時に、ゼルは引き金を引いた。
ひゅっと風がなって、彼女の頬に赤く筋ができる。
彼女は身じろぎ一つしなかった。
「なっ!」
「どけ。007。お前に用はない。次は本当に撃つぞ」
ゼルは目を細めて、グレートの頭を狙っていた。
指は、しっかりと引き金にかかっている。
「ベルリネールは先に出せ。007、武器は捨てて壁まで下がれ。それとも……」
ゼルの目は、乗客の一人を見ていた。
兵士が意識のない紳士を抱えて、外に出て行く。
二人は、焦った気持ちでそれを見ていた。だが、どうすることもできない。
フランソワーズは、唇を噛んだ。
「これ以上、手を出さないで。他の人には関係ないでしょう」
「お前の態度次第といったところだ」
銃口が、彼女をまっすぐに捉えた。
「お前が抵抗するのならそれなりのことをしなければならないし、大人しく私に従うというのなら無傷で帰してやってもいい」
「……わかってる」
彼女は、美しい顔をふいと逸らした。
グレートも、しぶしぶ銃を床に置くと壁際に身を寄せた。両手を上げる。
すぐに、兵士達がそのグレートを包囲した。いくつもの銃口が、グレートを狙っている。
このくらいの兵士なら自分だけでも何とかなるが、乗客の命がかかっている。
そうなると……。
グレートは、強く上げたままの拳を握った。
その間に通信で仲間を呼ぶ。
─── みんな、早く戻ってくれ。ヤツだ!

ゼルは、彼女だけを見ていた。
「これは契約違反の罰」
また彼女に向かって撃った。
鋭い光は彼女の右肩を貫いて、後ろの壁に吸い込まれる。
彼女は、眉をひそめてその痛みに耐えていた。
白い指の先からも、真っ赤な血が流れ落ちて、ぐらりと体が傾いた。
「きゃあっ!」
「フランソワーズ!」
乗客の間から声が上がる。
あれは兄の声だと、彼女は思った。
「私の元から去らないと、あの時お前は言った。違うか?……お前は私と契約した。だから私は、お前の仲間を助けた」
「………」
「……それなのにお前は逃げた。これは契約違反の何物でもない。お前が大人しく戻るというのなら、今回だけは見逃してやろう」
まだ、銃は下ろさない。
「やめて!その人が死んじゃう」
「そうだ!やめろ!」
客の中から、悲鳴じみた声が上がる。
ゼルは、それを一瞥し、今度は半身を血に染めた彼女を見る。
「この位では死にはしない。いや殺しはしない。立て。まだだ」
彼女は、ふらりと立ち上がった。
「……美しいな。今度は他人を救うために、我が身を贄にするか」
銃口をフランソワーズに向けたまま、唇の端を上げて小さく笑った。
「やめろ!これ以上傷つけるな!」
一人の男が、彼女の前に飛び出す。
「だめ!下がって!!」
彼女は重傷を負っているとは思えないほどの素早さで、男の前に進み出た。
「あなたが殺されるわ」
男の姿を認めて、彼女は泣きたくなる。
絶対に巻き込みたくはなかったのに。
「ばか!ほっとけるか!」
「お願いっ!……わかってるでしょう!私は大丈夫なの!」
彼女の蒼白な顔は、とても大丈夫なようには見えない。
「できるか!!お前は俺の妹だぞ!二度もオレの目の前で消えるなんて許せない、見たくないんだ」
突然、ゼルはジャンに向けて銃を撃った。
フランソワーズは、その瞬間にジャンを突き飛ばす。
「手を出さないで!!」
「今のはその男が悪い。大人しくしていさえすれば、お前にもこれ以上傷をつけるつもりはない。……私がどれだけ怒っていたか、わかったか?」
もう一度、銃を彼女の後ろにいる兄に向ける。その目が剣呑に細められた。
「お前が兄か。……もちろん調査済だ。ここにこうやって出てくるだろうことも予測がつく」
含み笑いが、彼女を捕らえる。
「お願い……もうやめて!他の人を傷つけないで!」
ゼルは黙って、ただ手を差し伸べた。
ゆっくりと開いたその手のひらには、あの時彼が捨てた、青い石のついた指輪が乗っていた。
これを受け取るということは、ゼルと自分との契約が生きていることを認めることになる。
フランソワーズがうつむいて、息を飲む。
そして、しっかりと顔をあげ、ジャンとグレートを見ると、頷いた。
ジャンが思わず駆け寄って、後ろからフランソワーズを支えた。
今回はゼルも、ただその様子を見ているだけだ。
彼女はゼルにわからないように、左手の細い指からそっと銀の輪をはずす。
右手はもう、肩の傷からあふれた血が指の先まで滴っていた。
滑る指先ではずした小さなそれを、そっと兄の手に落とし、ゆっくりと立ち上がった。
ジャンもまた、彼女の血に濡れた指輪をぎゅっと手の中に握りこむ。
妹が自分に託した宝物だ。
どうあっても、見つかるわけにはいかない。
そっとそちらを見上げると、ゼルが薄く笑っている。
視線は、フランソワーズから外してはいなかった。
何も思い通りにならないことなどないのだという自信が、その表情に現れていた。
彼女はゆっくりとゼルに向かって歩く。
血が流れすぎたのか、足元がおぼつかない。
そして、その青い石の指輪を受け取った。
それはグレートにとっても、我慢の限界点だった。
自分の肩をつかんでいる兵士を振り払うと、床に落としたままの銃を拾おうと身をかがめる。
ゼルは表情一つ変えず、ジャンを撃った。
ゼルの銃から放たれた光は、ジャンの腕をかすめ、後ろにいた他の乗客の脚までも貫いた。
「うわああっ」
撃たれた乗客が悲鳴を上げる。それ以外の、誰もが動けなかった。
「うっ!」
グレートはそのまま動けない。動いてしまったら、次こそは乗客の命を奪うだろう。
ゼルは何事もなかったかのように、彼女だけを見つめていた。
「お前たちは哀しいな。他人の命に縛られて身動きできなくなる。他人のために自分を差し出すか。……過ぎた自己犠牲は見苦しいぞ。フランソワーズ」
そんな言葉を黙殺して、彼女はただまっすぐにゼルの元へと歩く。強い瞳でゼルを見据えていた。
「あいつはどうするかな。お前が私の元に戻ったと知って。……それ以前にまだ生きているかな?」
手を伸ばし、彼女の腕を引いた。
華奢な体が、ふわりとゼルの腕の中に抱え込まれる。
ゼルは彼女の血で汚れるのも構わず、そっとその体を抱きしめた。
そして、再会を愛しむように唇を重ねる。
今自分の手の中に、ずっと求めていたものがある。なぜだか、それで少し安心している自分がいた。
そして、そんな感情を、ゼル自身は嘲笑していた。
『……ジョー。……ごめんなさい』
思い浮かぶのは、恋人の笑顔だった。
『……あの約束……覚えてる……?』
ゆるやかに彼女の意識は、闇の中に落ちていった。


8
「そこまでだ!」
鋭い声がした。
全員の目が、ラウンジの入口付近に集中する。
ゼルはにやりと笑った。
「……ふふ……。生きていたか。それでなくてはつまらない」
「ゼル!どこまでフランソワーズを……!」
ジョーの後ろには、仲間達と、先に連れ出されたはずのベルリネールが保護されていた。
ゼルは別段興味がある風でもなく、ちらりと視線を投げて寄越す。
「役に立たないものばかりだな。ベルリネールを押さえることが目的だったはずだが。……まあ、いい。そちらはお前たちに譲るとしよう。私の目的は果たしたから」
口元に笑みを浮かべたまま、彼を見た。
「フランソワーズは生きているんだ。意志を持った人間なんだ。人形なんかじゃない!」
「今頃のこのこと現れたお前になど、言われる筋合いはないな。フランソワーズはしっかりと返してもらったぞ」
嘲るような口調の黒衣のゼルの腕の中で、彼女の姿が鮮やかに浮かび上がって見えた。
血に汚れた半身が痛々しい。
「邪魔だ。そこを通してもらおうか」
ゼルが唇の端をあげて笑う。
「このまま、フランソワーズを見殺しにするか?この傷では放っておけば危ないかもしれないな」
腕の中の彼女の頭に、ゼルは銃口を当てていた。
ラウンジには、百人近くの人が集まっているはずだというのに、誰一人として動く気配がない。
ジョーとゼルは、そのまま睨み合う。
二人の周りには、ゆっくりと時間が流れているようだった。
その中で 先に動いたのはゼルだ。
ジョーの肩越しに、こちらを狙っていたハインリヒめがけて光の筋が伸びる。
その瞬間を、ジョーは逃さなかった。
ハインリヒが身をかわすのを確認する前に、彼の銃から、光線がゼルの頭部目がけて打ち出される。
黒い髪がふわりと舞わせて、ゼルは間一髪でそれを避けると、彼女を大事に抱きかかえた。
そして、ぴたりと彼を狙う。
ジョーも一歩も引かずに、銃口をこちらに向けていた。
ゼルの腕の中にある彼女のことは、まるで見えていないように、ゼルだけを見据えている。
しんと静まり返っていた。息づかい一つ聞こえない。
仲間の誰もが動くことはできなかった。
この場を壊すことなど、到底できることではない。
ここで引いては、ゼルに彼女を奪われてしまうことが分かっているのに。
その静寂を打ち破って、ジョーが一歩を踏み出した。

次の瞬間、轟音と共に船が大きく揺れた。
「来たか……始まるな」
ゼルが小さくつぶやいた。
今まで物音一つしなかったラウンジ内が、一瞬にして騒がしくなる。
「お前たちが大人しくしているというのなら、攻撃はやめてやろう。この船は私の手の中にあるのだということを忘れるな。……お前の大切なフランソワーズもな」
もう一度、船が大きく揺れる。
先ほどより遙かに大きく、立っていらないほどの衝撃に、ほとんどの乗客がその場にうずくまった。
大きな悲鳴や、物が落ちる音、ガラスの割れる音があちらこちらから聞こえる。
どこからか、きな臭い匂いまでもが漂ってきていた。
ひときわ大きく、子供の泣き声が聞こえた。
絡み合った視線を逸らしたのは、ジョーだった。
これだけの人数の乗客を、巻き添えにはできない……。だけど!
フランソワーズが……!
彼は、銃を床に落とした。
ゼルはまた、彼に嘲るような一瞥をくれると口の端で笑った。
「私は約束は守る……。安心するがいい」
ジョーの脇を、彼女を抱いたゼルがゆっくりと通りすぎる。
彼は、爪が手のひらに食い込むほど、強く拳を握りしめた。
何もできない自分が許せなかった。
だが……。
もう一度攻撃されれば、この船は沈む。
例えそうなったところで、自分たちはもちろん問題はない。だけどこの乗客は……。
彼女の兄は……。それを彼女が望むはずもなかった。

デッキのヘリポートには、黒い機体が待機していた。
ゼルは、悠々とそれに乗り込む。
仲間達は、ただ歯がみして、それを見ていることしかできなかった。
床に銃を放り出し、ヘリの起こす暴風に髪をなぶられたまま。
そうして じっと見つめる中、彼女の姿もゼルとともに消える。
ゼルは、決して彼女をその腕から離すことはなかった。
空には、複数のヘリコプターが旋回している。
海中にも、かなりの数の敵が潜んでいるようだ。
それに気づいたドルフィン号は、少し離れた場所に隠れていた。
みすみす博士と眠るイワンを、危険な目にあわせるわけにはいかない。
二人と共に待機している張々湖から、状況の連絡があったばかりだった。
目の前の大きな機体が、ゆっくりと空へと上がっていく。
それを守るヘリが、こちらを狙っていることは容易に想像できた。
そして、その付近を不気味に飛び回る機体は、まるで彼らをからかっているように間近を飛行する。いつでもこの船を沈めてやる……暗にそう示していた。
彼らが手を出すことなどできないことをわかっていて、うるさい蝿のように目の前を横切っていく。
その間にもゼルと彼女を乗せた機は、ぐんぐんとその距離を離していった。
「くそっ!」
誰かのいまいましそうな声が聞こえた。
何もできないまま、それらが飛び去っていくのを待つより他ない。
乗客たちの命を、こんなところで危険にさらすわけにはいかない。
「………」
仲間たちは、彼女の身を案じながらも、どうすることもできなかった。


*この話は、以前、某MLにて書かせていただいていた話に、少し修正を加えた物です。
 その時読んでくださっていたみなさまには深く感謝申し上げます。
 ちっとも進んでいなくてごめんなさい〜。 

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