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22
食事の後、部屋の中には、珍しくユリアの姿がなかった。
それを確認して、フランソワーズはまたレッスン場に戻るために扉を開けた。
ここではなく、あそこで一人になりたかった。
自分の動ける範囲の、一番落ちつける場所。
いつも影のようにぴたりとついてくるユリアのおかげで、一人になれることなど、ほとんどなかった。
そのユリアがいない今しか、今後の事をゆっくりと考えられないような気がした。
この部屋の外には、常時、二人の兵士が見張りを続けている。
逃げられるわけがないと思っているのか、その意志がないと思っているのか、部屋の移動も今では自由にできた。
いつものように二人の兵士の間を通り、次の扉の前に立つ。
鍵穴に鍵を差し込んで、ゆっくりと回す。
かちゃりと小さな音がして鍵がはずれると、フランソワーズは、鈍い金色のノブを握った。すでに手に馴染んだ感触だった。
ふいに、後ろの兵士が含んだ笑いを漏らす。
「……昨日の敵が、今日はゼルさまの愛人か。それともペットと言った方がいいのか?」
フランソワーズの肩がぴくりと震えた。
「どうやってゼルさまに取り入った?したたかな女だな。仲間を売ったのか?」
「おい、やめとけよ。ゼルさまの耳に入ったら、ただじゃすまないぞ」
「大丈夫だよ、そこまで堕ちちゃいないだろ?003」
挑発的な言葉に、たまらなくなって振り返る。
唇を噛んでその兵士を睨み付けた。
「……っ!」
「愛人なら愛人らしく、おとなしくゼルさまに従っていればいい。なんのために俺たちがここにいると思っている?お前が逃げないか監視するためだ。ゼルさまに飼われているお前がお高くとまりやがって。ゼルさまの気まぐれで、お前がここに置かれているだけなのにな」
フランソワーズは、兵士から視線を外す。
「どうせお前の仲間たちは、ここまで辿り着くことなどできない。それなのに俺たちまでこんなところに閉じこめられてるんだ。お前のせいで」
「……」
「お前が暢気に踊っている間に、お前の仲間を根絶やしにしてやる。ここから逃げたければ、さっさと逃げればいい。ゼルさまの手から逃れられると本気で思っているのならな。……俺たちのためにも、さっさと覚悟を決めて欲しいものだよ」
「やめろって」
もう一人の兵士が、肩を掴む。
「いいんだよ。お前はここで満足してるのか!?この女の監視だけを続けて……」
「ご忠告ありがとう。考えておくわ」
男の声を遮って、何とかそれだけ言う。
さらに何かを言いかけた兵士たちを見ることもせず、逃げ込むようにして扉を開け、レッスン場にすべりこんだ。
内側からは鍵のかからない扉に背を預けて、唇を噛みしめる。
扉の向こう側で、男の罵声とそれを宥める声がまだしていた。
悔しかった。
出られるものなら、さっさとこんな所から出て行きたい。
誰が好き好んで、ここに閉じこめられているというのか。
ゼルに飼われているわけじゃない!
(……ジョー、お願い、ジョー……。私を助けて……。私一人じゃ、何もできないの)
ぽろぽろと涙が零れた。あわてて、手で拭う。
それでも涙は止まらなくて、ずるずるとドアに寄り掛かったまま、その場にしゃがみ込んだ。
(いつもみんなの足手まといになってばかりで……情けないけれど……。お願い。帰りたいの。あそこに。私の場所に。あなたの隣に!)
レッスン場には、月の光が差し込んでいた。
その中で灯りも付けず、心の中で彼を呼ぶ。
ずっと我慢していたものが、堰を切ったように体の外に溢れてしまう。
(……私をここから出して。自由にして!帰りたい。……帰りたいの。……それができないのなら……!)
ゼルの手の平の上で踊らされている自分が、嫌でたまらなかった。
こうして自分が追いつめられて行くのを楽しんでいるのだろうか。
(……ジョー……お願い……)


23
明るい月明かりの中、フランソワーズは踊っていた。
結局、自分にはこれしかないのだと、自嘲気味に笑う。
一度溢れ出した涙は、しばらくの間止めることはできなかった。
けれど、ひとしきり吐きだしてしまって、却って頭の中がすっきりしたような気がする。
こうして踊ることで、自分の中の冷静さを取り戻したかった。
踊って、この気持ちを振り払ってしまいたかった。
青白い光が、彼女のしなやかな体を照らす。
彼女の足元には、柔らかな影が落ちていた。
指先にまで注意を払い、体中の感覚を研ぎ澄ます。
そうして、 ただひたすらに踊っていた。
頭が空っぽになるまで踊り続けて、ふと、いつものように彼の指定席へ視線を走らせる。
(ジョー、見ていてくれた?)
どきりと心臓が鳴った。
そこには黒い影があった。
長い髪が月の光に輝いていた。
彼女の動きが止まる。
(いや……、いや……。どうしてそこにいるの?どうしてその場所に……!やめて!そこはあなたの場所じゃない!ジョーの場所なのに……)
「……どうした?もう踊らないのか?」
(いつからそこにいるの?その場所を返して!そこがジョーの場所だって知っていてそこにいるの?)
フランソワーズは立ち尽くしたまま、動くことができなかった。
いろいろな感情がぐるぐると自分の中で渦巻いていた。
ずっと姿を見せなかったゼルの突然の来訪にも、心にそっと秘めていたその場所までもゼルに侵されたことにも。
不安と怒り。それだけではないいろいろな感情が行き場を持たないまま、彼女の中を駆け巡る。その場所から自分を見つめるゼルに対して、どう反応していいのか、それすらもわからなかった。
「それならば、私に見せてもらおうか。お前の心を」


24
「踊れ。フランソワーズ」
ゼルの言葉に、フランソワーズは何も答えられなかった。
私の、心?
「踊るお前が見たい。あいつは、いつもお前を見ていたのだろう」
「……」
「観客は私一人。それだけの舞台だ。私のために踊れ。フランソワーズ」
彼女は視線を逸らした。
ゼルのために踊ることなど……!
自分のすべてをさらけ出されてしまうような恐れを感じていた。
そして、自分の中の大切なものを汚されるような気さえする。
どうして、そこまでゼルに従わなければいけないのだろう。
私は私でいたい……。ただそれだけのことが、できないなんて!
「お前はまだ自分の置かれた立場を理解していないようだな。お前は私のものだ。違うか?」
ゼルの声がすぐ側でした。
冷たいものが背筋を伝う。
「私は、お前を気に入っている。だからお前の頼みを聞いた。……仲間を助けてくれ、という頼みだ」
彼女は顔を上げなかった。
「……これ以上私を怒らせるな。なぜ、私がお前に自由を与えている?」
俯いたまま、強く目を閉じる。
「今からお前の大切な仲間の元へ、部下を送ってほしいのか?この場所をおまえの手から取り上げて欲しいのか?……それとも名実ともに、私のものになるのか?」
いつの間にか彼女のすぐ後ろに立ったゼルが、からかいを含んだ声で、そっと囁いた。
そして、その亜麻色の柔らかな髪を、指先で弄ぶ。
フランソワーズは勢いよく振り返ると、ゼルをまっすぐに睨みつけた。
怒りを露わにした青く澄んだ瞳がゼルを捉えている。
射るような視線。頬がほんのりと桜色に染まっていた。
ゼルはそれを見て、にやりと唇を歪める。
「その強い瞳は好みだな。ユリア、支度を手伝ってやれ」
その言葉をきいて、ユリアが扉を開けた。
扉の向こうから、強い光が流れ込む。
彼女が目を細めた。
「行け!」
ゼルの強い言葉に、躊躇いながらもドアの方に歩き出す。
なにもかもゼルの思い通りにされている自分が、悔しかった。


25
ユリアに伴われて部屋に戻ると、そこには数人の女性が控えていた。
女たちは分担して、てきぱきとクローゼットを開けていく。
「衣裳はどうなさいますか?ここにあるものしか、今はご用意できませんが」
「……このままでいいわ」
「いいえ、お支度はきちんとさせていただきます。ゼルさまのご命令ですから」
彼女は小さく息をついた。また、これだ。
ここで起こることは、すべてゼルのため。
彼女を飾ることも、美しく仕上げることも。
フランソワーズはクローゼットの中から、薄くふわりとした白いドレスを選び出す。
レオタードの上にそれを羽織って、高めの位置でリボンを結んだ。
試しに少し体を伸ばすと、彼女の動きにそってドレスも柔らかく舞う。
これなら大丈夫だろう。
「音楽は、どれをお使いになりますか?」
違う女性が手にしたCDの中から一枚を選び出すと、曲をメモする。
それを確認して、ユリアがそれぞれに指示を与えていた。
ふと、いつもの舞台前の雰囲気と重なる。
こんな風に慌ただしい、少しぴりぴりとした空気。
舞台に立つ直前の緊張感。
それが心地いい。
「こちらへ」
ユリアに腕を引かれて、鏡の前に座らされた。
そうだ、今から舞台なのだ。
私にできること。……ゼルに文句のつけようのない舞台を見せること。
そういう戦い方だってある。大丈夫。できるわ。
……大丈夫。
フランソワーズは、まっすぐに鏡の中の自分を見た。
ユリアが、彼女が一番美しく見えるように化粧を施そうとしていた。


26
フランソワーズが部屋から、レッスン場へと戻る。
扉の前にはやはりユリアが控えていた。
こちらにむかって一礼すると、ゆっくりと扉を開けた。
扉の向こうには、光。
無数のオレンジを帯びた光が、揺らめいていた。
たくさんの燭台。たくさんの蝋燭。それに灯されたたくさんの淡い炎。
それらが、壁でゆらゆらと輝いている。
そして、舞台に当たる場所を、さらに多くの灯りが囲んでいた。
その奥の、闇に同化しているようなゼルの姿。
彼女の目には、それがはっきりと見えていた。
足を止めて、小さく息をつく。
その途端に、ユリアに舞台の方へと軽く押し出された。
振り返って、それを視線で咎める。
踊る以上は、自分にとっても最高のものを踊りたい。
ゼルに生半可なものを見せるのは、彼女のプライドが許さなかった。
一つ深呼吸する。
それから 両腕をゆっくりと上げた。
それを合図にしたように、音楽が流れ始める。
ゆったりとした静かな旋律が、その場を満たしていく。
ゆらゆらと揺らめく蝋燭の灯りと、その音の連なりの中に彼女の姿が溶け込んだ。
そして、すべるように最初の一歩を踏み出した。

 

 

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